思えば遠くへ来たもんだ

怪しい認知科学を紹介しながら、行き着くところへ目指すのを綴る場所

-千年女優という映画について-

また、千年女優について語りたくなったので、記事を書く。(ちなみにこれを

書いている現在、午前4:30)

千年女優については、前にも書いた。

visualawareness.hatenablog.com

千年女優とは、簡単に言えば「初恋の人を追いかける女優の主人公の一生を

描いた」作品である。

これだけ聞くと、大した事の無い映画にも感じてしまうかもしれないが

インタビューとして主人公の一生を回想していたかと思えば

主人公が出演していた映画の1場面だった、という今見ている映像が

実際に起ったことだったのか、映画の話なのか分からなくなる、独特の演出。

その演出によって、より主人公に起きた出来事、その時に抱いていた気持ち

情景がより強く残り、いつの間にか魅了されている、そんな素敵な作品である。

正直、見た方が早いので、興味があれば借りるなり買うなりした方が良い。

合うかどうかは、その人の好み次第だが、この作品の監督の映画群の中では

割と一般受けする作品であると思う。(それでも、ユニークな作品であることには

間違いない)

 

 

 今ならBlu-rayが有るので、それを買うと良い。

僕は、TsutayaでDVDを借りて2回見た後、BDを即買いし届いたその日に

3回目の視聴をした。

それぐらい好きなアニメ映画である。

 

 

さて、ここからは一応ネタバレであるので、この時点で興味を持った方は

回れ右である。

 

 

「だって私、あの人を追いかけてる私が好きなんだもの」の真意とは

作品の最後の台詞である。

この台詞について、賛否両論あるらしくこの台詞の意味について、少なくとも

2つはあるようで。

1つ目:初恋の人は好きじゃなかった、自分が好きなナルシスト

これは、映画の最後で落胆してしまった人達が抱く解釈。

実は、この解釈を持つ人が意外と多いのではないかと思う。

要は「恋している私に恋している」という解釈である。

確かに、僕も初めて見たとき、台詞の感じも割と淡々として語っているため

どうも、鍵の君に対して情があるような台詞に思えなかった。

なので、あの場面だけを考慮するならば、否定的な意見になってしまうのも

無理はないと思う。

しかし、僕はそんな叙述トリックみたいなオチの作品として

1時間半の映画を作るとは思えなかった。なので、この解釈は僕の中では

ピンとは来なかったのである。

 

2つ目:自分の女優としての生き方の肯定

鍵を落としたあの時から、女優を離れていたが

インタビューをしていくうちに自分の人生の

本当に大切なことは、女優として輝いていた自分だったと思い出し

その女優として働いていた原動力は「初恋の人に会いたい」ということだった。

その気持ちを抱いていた、女優の私を肯定する。

そんな気持ちから出た、純粋な台詞が「だって私~」だった。

 

純粋なその気持ちは、世間体や加齢によって、抱いてはいけないものと

思い、主人公は鍵を落としたことをきっかけに、その気持ちを隠し

そしてモチベーションが無くなったため、女優を辞めることになる。

だけど、インタビューによって、周りに関係なく、その気持ちを抱いていることが

自分なのだ。

だから、女優として生きていた、少女の気持ちを抱いていた自分を

肯定するための台詞である。

自己肯定の台詞であるという解釈。

 

こっちは、肯定的な意見である。恐らくタイトルの女優というのも

あって、この解釈が正しいじゃないのと思っている人も多い。

僕もこの解釈を見たとき、なるほどねと思った。

1つ目に何処と無く、違和感があったため2つ目の解釈は、何となく良さそうに

思えた。

ただ、納得というか実感というか、自分には共感できていなかったのだ。

今までは。

 

 

結局、自分の気持ちで行動していたのが「楽しかった」からなのではないか?

女優としての自分を肯定する。とはあるが、別の千代子自体は女優に積極的に

なりたかった訳ではない(と思う)。

飽くまで、「鍵の君を追いかける」手段として、たまたまスカウトされていて

一番適当な方法として、女優になったのだ。

そのため、女優としての自分を肯定するというのは、直接の正解ではないと思う。

結局のところ、「鍵の君を追いかけたい」という気持ちに沿った結果が女優であり

例えば、途中でより良い手段を見つけたら、そっちに移っていたのではないか

と思う。

だから、映画に出てくる役も、様々な役があったのかもしれない。藤原千代子は

確かに色々な役を演じれる女優ではあったが、この役は!という女優ではなかった。

それは、本人が女優という仕事に命をかけていた訳ではなかったからではないかと

僕は考察した。事実、彼女が女優に対する考えや意見を述べるシーンは一つも

ない。

飽くまで、その演じた役の説明をしながら、自分の人生を追っていく。

その殆どが女優の仕事だったというだけである。

だから、女優として生きた自分を肯定するというのは、適切ではない。

 

だったら、何に対して肯定したのか。

僕は、自分の気持ちを第一優先にしていた自分を肯定したと考察します。

最初は、「鍵の君を追いかけたい」という気持ちで、実際に追いかけて

女優になって、役も演じながら情報を集め、あの人の影を純粋に追い続ける

行動力が目立ちます。

その時の千代子は、何一つ曇りがない。

 

だけど、徐々に歳を取っていき、世間体を考えなければならない自分が

出てきます。そう、自分の気持ちだけを考えている訳にはいかなくなったと

思い込むのです。

そして、映画の中盤で、プロデューサー的な男の策略によって

常に身につけていた千代子の鍵が無くなります。

そして、その後流れるように結婚し、幸せに落ち着いたように思えました。

ですが、その後千代子が夫の部屋を片付けていると、鍵を見つけます。

そして、千代子は一目散に再び「初恋の人」を追いかけます。

電車、バスと乗り継ぎ、途中交通機関が止まっても、歩むことを休めません。

雪の中を、林の中を、辛い環境の中、追いかけ続けた最後に

あの人の故郷にたどり着き、そしてあの人の使っていたキャンバスを見つける。

また、「あの人」は別の遠くの場所へと行ってしまった。

それでも追いかけると誓う千代子。

 

だけど、その後映画の撮影中に地震が起きて、再び千代子の元から離れる鍵。

千代子は、再び思います。「もう追いかけてられない」と。

そして、女優を辞めてしまい、余生を俗世から隔離された僻地で暮らす。

 

その後は、インタビューを受けて、回想後、鍵が返される。

そして、最後の台詞を言う。

この時に千代子はこう思ったのではないか。

「自分の気持ちを優先して、行動している時は楽しかった」と。

もちろん、その内容ははたから見れば、とても辛くキツイものだと思います。

女優なんて簡単な仕事でもないし、生き残れるかも分からない。

あの人を追いかけているのも、どこまでも見えない暗闇の中を走っている。

そんなきついことの連続である。

だけど千代子にとって、自分の気持ちを優先させるその生き方が

「一番自分らしくて楽しかった」のではないかと思います。

千代子にとっては、女優としてどう生き残っていくかとか、世間体がどうだとか

本当はどうでも良かったのだと思います。

たまたま、追いかけていたら「結果がついてきた」というだけです。

思えば、ある映画の撮影のシーンを取る際、最初は台詞を上手く喋れず

カットを取り直すというシーンがありました。

共演者からは悪態をつけられるし、自分はどうしたらいいかわからない。

だけど、自分の気持ちをストレートに伝えるように、台詞を喋ると周りから

称賛を受ける、という一連の流れがありました。

恐らく、これも気持ちを優先したら結果がついたということなのかもしれない。

 

そう、楽しかったのだ。

その生き方が一番、合っていたのだ。

それが鍵の中身の答えだった。だから彼女は最後の台詞を言った。

「だって私あの人を追いかけている私が好きなんだもの」と。

あの人を追いかけていたい、少女の頃の気持ち。大切なものは何か?という

答えを表す台詞だったのだ。

 

と、解釈を述べていたけどこれも一つの解釈でしかない。

何よりも、この作品は見れば見るほど発見があり、見るたびに

解釈が変わるかもしれない。

それに、この意見も自分だけの意見ではない。他の人の意見も取り入れながら

自分なりに考察しながら、述べた内容である。

だけど、自分の人生に対する最近の考えと、共通する部分があるのではないか

と思い、この解釈が今まで一番納得できたため

今日、こうやって記したのであった。

そして、現在午前5:45。

 

やはり、こんな時間に書いてはいけないっすね。

なんだか、自分に酔っているみたいな文章で気持ち悪い。

ただ、作品自体は良いので、良ければ少しでも興味を持ってくれる人が

いればと思います。

以上。